
気持ちの整理するついでに少し書かせてほしい。
初めて見たときは見間違いだと思った。でも同姓同名なんて出来が良すぎる。
そして俺だけにそうするだけではなく、兄弟全員に送る始末。正直たちが悪い。
申請するだけであちらからアクションはなにも起こしてはこないし。
離婚した当時の俺の年齢が小学校低学年のガキだったからなめてんのかとさえ思った。
当時はどちらかと言えばパパっ子だったのもそう思わせた一因かもしれない。
そんなことがあってこの歳になるまでの記憶を振り返りたくなった。
だらだらと自分語りをするだけのしょうもないスレだ。
初めてスレを立てるし至らないところもあると思う。どうかそこは大目にみてやってほしい
いい意味でも、悪い意味でも、だ。
俺は生まれながらにして日本国内でも有名な一等地に住んでいた。
しかも社長の息子で長男として。
俺自身の記憶はないのだが、パーティーを開いたり、
そこに芸能人なんかも来ていたらしい。今では全く考えられないような世界だ。
大きいお家に大好きな両親に気の合う兄弟。
毎日おいしいご飯に休みにはお出かけ。
本当に贅沢をさせてもらっていたと思う。ああ、書いてて悲しくなってきた。
でも俺は極度の人見知りで、家族以外とはまともにしゃべることすら
出来ない子供だった。
不登校になりかけたときは先生が必死に家に通ってくれたなあ。
本当に出来の悪いガキで申し訳ない。でもなぜか友達が居らず
一人という状態になったりいじめられたりということにはならなかった。
俺の短い人生のなかで自慢できるとしたらそのことだけだろう。
なぜか一人は友達がいた。繋がりの深さはどうであれ、なんとかなった。
それだけは本当に感謝してる。
産業で
引用元:http://viper.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1397140508/
中学生のとき母の癌発覚
高校生、俺氏ストレスで摂食障害
卒業後、母他界、その数か月前に離婚原因を知る
写真もなく友達も少ないところからみてはじめたばかりだろう。
卒業校など詳しいことは知らないし、聞いてはいけない雰囲気だった。
でもしっかりステータスのところは既婚になってた。
なに一人幸せになってんだよこの野郎と思ったのが本音。
高校卒業後、専門に進むも摂食障害とか母の入院に耐えられず中退。
その後母の介護をして看取った後、フリーターで今だよ。
他に盛り上がる所ある?
離婚原因は金銭トラブルとか母の友達が言ってもいないことを
さもいったかのように告げ口したとか。
でも死ぬちょっと前に言われたよそに子供つくってあんたらを捨てたんや、
ひどいやろってなきながら言ったのが忘れられない
盛り所かああ。難しいな。だいぶはしょったから
あとでゆっくり振り返りたいなあとは思うけど。
かなり長くなるのは許してほしい。産業でまとめるのはこれ以上は無理なので・・・
そんな俺の人見知りをしながらも幸せな生活は徐々に雲行きが怪しくなってきたんだ。
なぜかって?父が家に帰ってこなくなったからだよ。
母に聞いたら「単身赴任だ」と教えてくれたけれど、たまに帰ったら
大声で怒鳴り合ってるのを聞いたら、それ意外にも何かあるのだと
さすがのガキでも悟る。
そして間もなく両親は離婚した。
あっけない幸せな生活の幕引きだった。
やけに印象的だった。俺は涙の一つもでなかった。
告げられた時も「いいよ」の一言で終わってしまった。
両親のどちらにつくのか、なんて選択の余地はないまま、
俺は母と家を出て行くことに決まった。というより父以外みんな母側だった。
そうなった原因は後々書くとしよう。
そしてここで俺の短い人生で初めての踏ん張りどころが訪れる。
そう、転校だ。苗字も変わるらしい。
その当時、入学当初からピークに学校が楽しかった俺は悲しかった。
あのおいしい給食がもう食べられないんだと思うと寂しかった。
あんなに頑張って練習した音楽会の曲も、頑張って練習した逆立ち
してからの前転も見せる機会が永遠に訪れることなく終わるのだ。
そこまで分かって俺は初めてベッドのなかで泣いた。
そして小学校の間はなんとなく過ごした。
でも仲良くしてくれた子たちがみんな私学の中学校に行くと決まったときは
本当に悩んだ。俺も行きたいと言った。
でもお金がないから無理だって言われたんだ。まあ、仕方ない。
だってあんな生活から一転。母がパートで家計を支える生活になったんだから。
二十歳の誕生日のお祝いメールが送られてきた俺よりマシ
いつでも俺の味方とか書いてあって寒気がしたわ
今思えば本当に恥ずかしいくらいのわざとらしさだった。
男でこれはないだろう・・・と言うレベル。
きっかけはクラスメイトの「俺君って天然だね」の何気ない一言だったっけ。
でもこれがきっかけで今では素の自分で友達をつくることができました。
キャラ付けって大事。
そして二年生になったある日、母に癌が発覚したのだ。
ありがとうございます。本当に嬉しいです。
というよりだそうとも思えなかった。なんか、だせえって。
しんどいといっててもそのしんどさが理解できなかったんだな。
で、家事を手伝ってほしいと言われても
「家事は主婦のしごとだろ、学生は勉強してなかったらサボったって怒るくせに自分の仕事は人に頼るのかよ」ってつっぱねてたりしたわ。
今なら弁当ひとつでも洗っててくれるとうれしいって気持ちも理解できるのにな・・・
当時、xの代入ですら分からず、図形問題は定規で図って
長さの答えを出したほど馬鹿だった俺は死ぬほど勉強した。
社会の教科書は丸暗記したし、睡眠時間二時間で一年間勉強した。
でも担任に受験校決定間近に受かる確率が五分五分と言われた俺は
妥協して一つ下の学校にした。
そこなら受かるほど勉強したんだと無理矢理自分を納得させて。
でも行きたかった高校の合格最低点を見て、自分の点数のほうが
上だったときは悲しかったなあ。嬉しかったけど、悲しかった。
でもそんなことも後の祭りなわけなのだけど。
そしてそんな俺にも春が来たんだ。人生初めての春。
一目ぼれだった。友達の友達に一目ぼれ。
もうアタックしまくったさ。引かれるくらいのアタック。
その子専用の着信音にしたりありったけの感情が伝わるように
めちゃくちゃ絵文字つけたり。絶対気づいてただろってくらいの猛アタック。
もう何もいらない!ってくらい嬉しかった。
その子とは結局卒業まで付き合った。
で、高校三年の受験生まっただ中に息抜きに電話してたんだ。
で、その時に弟が横から言ったんだ。「兄ちゃんって牛みたいだよな」て。
そう、俺、ちょっと肉がついちゃってるんだよ。デブなんだよ・・・。
それから彼女は会うたびにからかってきたり牛の絵文字を使うようになった。モ~。
「修学旅行中食べ過ぎないように監視してて」とまで言う始末。
規制サイズがはいらないほどではないんだけどやっぱり見る人が見ればデブなんだよね。
自分でも気にしてたのは否めないからさ。本当に頑張ったよね。
そしたらなんと思ってたより彼女の言葉がストレスだったみたいでさ。
俺盲腸になってやんの。メンタル弱すぎ、笑える。
塾長にはあほ学校の子って遠まわしに言われて
それに比べて弟さんは賢くてって感じで正直感じ悪かった。
もう一人の弟はその年が高校受験で、久しぶりに遊びに行った中学で、
当時の担任に(俺の担任と弟の今の担任が同じ)
「俺~。弟、○○高校(俺が行きたくて死ぬほど勉強したとこ)行くって言ってんだけどさ、△△高校に行くように説得してくれんか?○○高校じゃあいつ余裕すぎるわ~。」
って笑いながら言われたわけよ。もうほんとそのときは泣きそうだったね。
担任はまるで○○高校は馬鹿だから~と言ってるようだった。
本当に悔しかった。でも何が屈辱的だったかってそれを一番下の弟に伝えた時だ。
そのあと、とうとう堪え切れずに布団の中で泣いたよ。
だから次の日から次の模試まで必死に勉強したよ
その甲斐あってか次の模試は国語だけだけどランキングに載ることが出来て。
あの感じ悪い塾長に「やるやん」って言わせたときは本当に鼻が高かった。
ただ、残念なことに地頭には勝てないようで、
皆が本気を出し始めた夏以降は一回も載ることはできなかったけど。
俺は再び頭を悩ませていた。調べてはっきりわかった。医療系の学費は高い。
どうしてもその道に進みたかった。でも私学文系の約二倍。無理だ。
そして母に言われた。「医療系の専門に進むか、今から私学文系に切り替えるか決めて」と。
国公立に行けるほど残念ながら俺は賢くなかった。
でも夢をあきらめたくなかった俺は専門学校に進むことにきめた。
あと弟が二人も居るのだ。大学という夢は諦めよう、専門職は強みだ。
そう言い聞かせた。
でもさすがに塾に行きづらくなった俺はだんだん行かなくなった。
受験間近にはほぼ近くの図書館で引きこもり、
塾の代わりに学校の先生に質問しまくってた。
自信があったところは全落ちして一番なかったところに受かるとは本当にまさかだった。
なにせ数学ほぼ勘でマークシートを埋めたのだから。
でも受かったのだ。いろんな人に報告した。初めて嬉し涙を流した。
受験前にくれたお守りのおかげだと弟に言ったら嬉しそうに笑って、
合格祝いだってマフラーをくれた。
本当に人生で一番嬉しい瞬間だった。
でも春に前を通ったときに、「○○高校、山田花子、△大学△学部合格」
みたいな立派な垂れ幕?があるなか俺のがなかったのは悲しかったな。
やっぱり専門学校じゃ恥ずかしいのかな、頑張ったんだけどな、って。
それから無事卒業して春休みはいっぱい遊ぶ予定だった。
でもこのあたりからさらにおかしくなってきたんだ。
とにかく「食べない」だった。
盲腸をきっかけに極度のカロリー制限をした。一日100キロカロリーとか。
ゼロキロカロリーのもので一日をしのいだり。
そんななか、彼女と俺は別れた。
痩せて褒めてほしかった彼女にほとんど受験で会えず、褒められることなく別れた。
情けないほど泣いて縋ったけど駄目だった。
それからは体重減少だけが楽しみになっていた。
100グラムでも増えるのが嫌だった。だから友達と遊ぶのが怖かった。
ご飯食べに行こうって言葉が怖かった。
痩せたら~しよう。が友達と会うのが怖くなってなにもできなくなってたんだ。
倒れたんだ。文字通り「バター―――ン」って。
風邪もひかない超健康児だったから最初なにがあったかわからなかったね。
ていうより、倒れたと俺が言われるまでその事実にすら気づかなかったんだ。
それまでふらっとしてなんか頭痛いな~くらいだったんだよね。
台所に寝転がって頭痛いなってなってもそれイコールぶっ倒れるって
考えにまで至らなかったんだ。
日に何度も倒れるもんだから泣きながら抵抗する俺を
無理矢理病院に引っ張っていったよ。
そこで言われたのが摂食障害。
まだ拒食症とか言われたほうがしっくりきたのに摂食障害っていうもんだから
拒食症ほどやばくないじゃんてなったよね。
で、食べないと精神不安定になるみたいだね。
性格が本当に変わった。今振り返ったら誰お前?って言いたくなるくらい。
そしてそんな心配をかけたままの入学式。
出会って間もない同期たちに「ガリガリやん!」ていわれることがなんだか嫌だった。
痩せたかったのに変な話だよな。
そして学校も本格的に始まると勿論昼食の時間もあるわけだ。
今までは我慢できていたものも、この環境の変化のせいで
徐々にその我慢の強さが弱くなってきていた。
もう心配で心配で、毎日見舞いに行っては面会時間ぎりぎりまでいた。
三か月を過ぎたころだろうか。
俺はとうとうパンのバカ食いというやつをやった。
でもそうやって食べる俺を見て安心した友達の顔と楽しかった時間は忘れられない。
最初は食べた次の日体重計に乗っても増えないことに安心した。
そしてまた食べた。みんな喜んだ。
そのサイクルをしているうちにいつのまにやら3キロ増えていた。
死にたくなった。言葉は悪いけど本当にそう思った。
痩せているという事実だけが俺の今の支えなのに
それさえもなくしてしまったらどうしていいのか分からなくなった。
たった3キロ。また戻せばいいじゃないかと思っても心がそれを拒絶した。
そして震えの収まらない両手。
常に何かを口にしてないと文字もかけないほど手の震えが止まらなかった。
それを飴をなめるなどして隠し通して少し。限界だった。
俺は人の前に出るのが怖くなったのだ。
重くてふれないという事実に愕然としたこともあった。
でもまだ耐えられた。
しかし再びまるまると太っていく自分の身体と対面し、
それを他人に見せることが何を失うよりも怖かった。
太りたくないと思いながらも震えは止まらない。
しまいには冷凍食品を凍ったまま食べる始末。
凍ったままのから揚げを食いちぎり、食べれるものはすべて食べた。
吐く寸前でようやく震えは止まった。
なぜか俺は吐けなかった。
その事実は母にも心配され、そんな不甲斐なさにまた泣いた。
誰にも見られたくなかった。食べ物を憎んでいても、
食べ物だけが唯一俺を裏切らないでいてくれた。
それから一年、俺引きこもり、とうとう母に縁を切られた。
戸籍から引っこ抜かれたのだ。
そして祖父母の元へと追いやられた。
そして更に引きこもりに拍車のかかった俺は、猛スピードで元の体重に戻っていく。
洗面台の鏡が苦手だった。風呂に入るのが怖かったのだ。
あまり入らない俺を見て祖父母は迷惑そうな顔をして言う。「あんなの孫じゃない」って。
あなたは優しい人ですね
弟たちは立派に大学に進学した。しかもそこそこの有名大。
それからちょくちょく母がまた検査入院ということで何日か家を空けることになった。
あれだけよく行っていたのに、他人の目に触れるのが嫌だった俺はなかなか行けずにいた。
母の心配よりも他人の目を考えた俺は最低なやつかもしれない。
そしてとうとう祖母に土下座で頼まれたのだ。
「お願いだから行ってやってほしい。もういつ死んでもおかしくない状況なんだ」って。
そこまで言われても迷った。なんだかんだ母は死ぬわけない、
よくあるドキュメンタリーみたいに奇跡の回復を遂げるんだって
心のどっかで本気で信じてた。
それからは極力通うようにした。
少しずつ、病院の看護師さんなら話せるようになった。
だけど母の病状は悪化する一方で、それに比例するように家族仲は悪くなっていった。
上手く言葉に出来ないけれど、母に対する接し方というか
病魔に対しての考え方のずれというか。
ずれが生じるのは当たり前だ。
そしてそう過ごすこと数週間。とうとう母は歩くことさえ出来なくなった。
さすがに死期が近いと悟らざるを得なくなる状況。
母もそう思ったのだろう。「最後に家に帰りたい」そう俺たちに言ったのだ。
俺たち家族に初めて介護という試練ができた。
でも祖父母は体力面、弟たちは学校ということで、介護は必然的に俺の役割になった。
傷の消毒の仕方とか薬の数とか聞いているうちに
だんだんと不安になったのは否定できない。
食べやすそうで栄養になりそうなものを作ったり、お風呂やトイレに連れて行ったり。
一日一時間だけ来てくれるヘルパーさんが居る間に食料品を買いに行ったり。
夜中不定期にトイレで起こされるのと、頑張ってるのに祖母から
「なんでもっと労わっあげないの!こんなに可愛そうなのに!」って
言われ続けたのはしんどかったなあ。
正直、早くこの生活終わんないかなって思ってた。
介護なんてもう嫌だって。このときばかりは介護しんどさに…って
事件の加害者の気持ちが分かった気がした。
あんなに元気だった親の弱っていく姿を子供である自分が支える状況に
なんだか情けなくなったんだ。
それに加えて弟が大学にバイトにと楽しそうな姿を見ると本当に嫌になりそうだった。
やりきったときはその人の死がきたってことだから。
そう思うと辛かった。
いや、子育てをしたことがない俺がいうのは失礼か・・・。
そして更に母の容態は進み、自宅という手段はとれなくなるほどで、
とうとうホスピスに行くことになった。
泊まり込みをしたこともあった。
あっつい日差しの中自転車ぶっとばして見舞いにたくさん行った。
でも洗濯物である日母と喧嘩した。
正直この生活に嫌気がさしてた。寂しさからくるわがままに鬱陶しいなあってなってた。
母の知り合いや看護士さんに言われる「お母さんを大切にね、頑張って」
て言葉が負担だった。
もう何をどうしたらいいのか分からなくなってた。
ものすごいスピードで日にちが過ぎ去っていきました。
数年間音信不通にしてた友達とも勇気を振り絞って連絡をとってみたりしました。
太った身体で外に出るのは未だに抵抗あります。
でもそんな自分に勝ちたくてバイトの面接も受けてようやく働き始めました。
そして話が冒頭に戻るんですが頑張ろう、
これからの進路をもう一度考えようと思った矢先に父からの申請です。
正直なぜこのタイミング?とは思います。
でもMOZUをたまたま見ていて「今見てるのは真実の断片だ」みたいな
セリフを聞いたとき少し知りたくなったんです。
父側の言い分を。
まだいろいろあったんですがさすがにもう引き延ばすわけにはいかないので
ここら辺でやめておきます。
不快な気分にさせてしまった方、すみませんでした。
でもこのしょうもない自分語りスレを開いてくださり、
レスをくださってありがとうございます。
そしてあたたかいコメントをくださった皆様、ありがとうございます。
すごく嬉しかったです。レスも本当に嬉しかったです。
父に関しては時期を見て何かしらのコンタクトをとってみようかと思います。
本当はそのこと中心で書こうかと思ってたんですけどいつのまにやら・・
では俺はそろそろ寝ます。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
でも親に暴言吐くバカより介護頑張ったあなたはえらいよ
1001: 以下、名無しにかわりましてJOJOちゃんねるがお送りします 2030/01/01(月) 00:00:00.01 ID:jojochan
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